2014年1月9日木曜日

未来の労働(2050ベース)

未来の労働(2050年ベース)

今回は労働について提案してみたいと思います。こうなっていると良いのではないかという提案です。

<<注意事項>>
1)暫定版なので今後、追記・修正をする可能性があります。
2)未来予測の部分と、著者(福島)が理想とするところが混在します。
3)実現可能性については、未知です。あくまで福島個人のデザインとしてご参照ください。


<<未来の労働(2050ベース)>>
※2050年に、貨幣(紙幣や硬貨)を媒介とした経済になっているかわかりませんが、とりあえずそれが続いているという前提で書いています。

☆1 そもそも”労働”の目的は何か?
1)労働は、人々が、それによって自分の生きている満足や幸せを感じられるものとしてライフステージの主要部分。自他共栄のもと、他人や地球にも奉仕しているという愛のもとで行われている。
2)個々人が、「やりたいこと、やりがいがあること」と「できること」と「社会から要請されていること」の一致感を感じながら生き生きと仕事ができている。
3)労働の価値に上下関係、差別、偏見などがない。
4)”シェア”という概念が深化・進化しており、自由に対価なしで利用できたり改善して使えるリソースが発達。互いに提供するという考えが常識となっている。
5)信頼にもとづく労使関係である。雇用する側もされる側も健全な精神状態で働けている状態である。

☆2 労働に基づく環境や雇用契約など
1)労働に見合う対価が支払われている、もしくは対価に同等な価値の恩恵を受けられている。
2)給与や税などの体系(職種による標準給与など)が透明化しており、市民は誰でもこうした情報を知ることができる。労働には公正な対価が支払われている状態。正確な納税が行われており、不正や使途不明金がない。
3)大学新卒一括採用しかないという採用形態ではなく、雇用主が示す雇用条件に満ちていれば幅広い年齢・男女から広く雇用が行われている。
4)職種・職業が合わなかったり、他の職業を希望する場合、何歳でも雇用マッチングシステムによりスムーズに転職が可能であり、そのこと自体が不利になったりはしない。雇用マッチングシステムでは、十分かつ必要な情報に誰もがスムーズにアクセスできる。次の仕事を探している間、次の雇用に備える期間を自分の教育に充てることができ、その場合は公的機関から給与が支払われる。
5)市民には広く生活保障がなされており、失業による不安や生活苦などの悩みはない。生活が保障されているという安心・安全な環境のもとで、自分の能力が発揮でき、社会貢献できる仕事を選んで遂行することができている。
6)過酷な肉体労働や精神労働を緩和すべく、ロボットやITによる機械化・オートメーションは進んでいる。しかしながら、これらのシステムよって人間が使われたり雇われるような雇用形態に陥らないように、議論しながらオートメーション化が行われている。

☆教育機関との連携
1)教育機関では、各個人がどのような学びを行い、どのような専門を学習したか、その成績はどうであるかという基準を個々人に与え、その個々人が、企業の提示する条件にあっているかを判断しながら、雇用主と協議したりマッチングシステムを利用することにより求人に対して応募する。従来の学校種や学歴というものは重視されておらず、あくまで個々人が何を学びどんな体験をしてきたか、またその人物の生き方・在り方全般が、雇用種条件とあっているかが雇用される場合の判断材料となっていく。ただし、個人で起業する場合はこの限りではない。
2)労働に必要とされるナレッジや実技教育を企業や業界関連団体がインフラとして提供している。これらを利用し、認定資格を取ることにより労働条件をクリアしていくケースもある。学校卒業自体が労働条件ではない。(学校で学びながらの労働、学校をリタイアして起業、就職、復学などが自由な環境で柔軟性に富む。)

2014/01/09 発信

2014年1月4日土曜日

未来の学校(2050ベース)

今回は教育分野について

未来の学校(2050年ベース)を提案してみたいと思います。

<<注意事項>>
1)暫定版なので今後、追記・修正をする可能性があります。
2)未来予測の部分と、著者(福島)が理想とするところが混在します。
3)実現可能性については、未知です。あくまで福島個人のデザインとしてご参照ください。


<<未来の学校(2050ベース)>>

☆1 そもそも”教育”や”学校”は何のために存在するか?

 私はそろそろ「教育」という用語から「学び」という語に全面的に置き換えた方が良いと思っています。教育にはどうも教え込む、育成するという上から下へのニュアンスが感じられますが、学びはもっとフラットなものではないかと考えるからです。人が学ぶということはなぜ、何のためかを、自分なりにまずは明らかにしておきたいと思います。これがぶれていると目的に合致した理想の学校はデザインしにくいからです。

人が学ぶ目的としては
1)幸せな未来を享受する、あるいは自ら掴むため(個人、組織、人類全体)
2)人類の繁栄とともに地球全体の生態系を持続していくため。共存共栄のため。
3)人だからできる学びという行為自体が目的、知見を深める知的欲求を満たすため。

大きくは、このあたりだろうと考えています。
地球全体がつながっていてグローバルな活動が当たり前の未来では、1国の繁栄とか1企業の繁栄のための教育という観点では持たないであろうと考えます。

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☆2 学校イメージ(校舎を備え、固定した教師陣がいるという図式ではない学びの多様性)

おそらく、現在にも増して多様性や柔軟性が進化していると考えられます。校舎や組織としての学校というものがある場合もあれば持たない場合も考えられます。多様な選択肢の中から学びの形態を選べるようになっています。しかし、中には淘汰され、短い寿命の教育システムもありますので、無限の選択肢からの選択というよりも、いくつかの形に集約されているかもしれません。

1)人が生涯学び続けるということが世界の常識になっている。世界あるいは日本共通の優れた教育コンテンツ(あらゆる動画や書籍・資料など)をいつでもだれでもどこからでも瞬時にアクセスし、共有できるような仕組みがある。教育の機会均等は今まで以上に保証されており、人々は、自分の成長やライフプランに合わせた教育コンテンツをキャリアに合わせて費用をかけずに利用することができる。世界の津々浦々まで、知識取得においてはハードルが非常に低い状態が実現している。個々人のオーダーメードの学びが実現している。必要にせまれらたとき、何度でもいつでも学べるし、学びなおせる。
※「大学を出たら、もう一生学ぶことはない」という学習観からの脱却

2)地域などにも多種多様な学び場が用意されており、ローカルなマッチングシステムにより学ぶコンテンツを提供する側と提供される側がうまくマッチされ、ともに学びあえる世界が広がっている。従来の学校という枠組みや教科・科目を越えて多様な形態の学び場があり、個人が自立して選択し学ぶことが可能な環境が整っている。特に地域の特徴や自然環境、人の資源を活用した多彩な学習・実習プログラムが用意されている。
※「教育は学校や塾がするもの」という価値観からの脱却

3)ICTを活用した教育は幼少期より当たり前のように使われている。人々はパーソナライズされた機器で自由な時間に自由な学びの機会が提供されている。さらにそれらの機器を使ったスムーズで効率的な学びができるようなガイダンスの仕組みも確立されている。学びに必要な標準時間は提示されているが、学ぶペースも個人の学習成長に合わせる方式になっている。
※「すべてが一律の学習内容を、学年進行で学ぶ」というスタイルからの脱却

4)人間の精神や肉体の成長に関する科学的理解が進んでおり、どの年齢層で何を習得させることが脳やからだの発達にベストであるかが研究され、推奨される教育内容の目安が示されている。しかし、個人差もあるため、それらの目安を参考にしながら、あくまで保護者や本人の判断で選択する。(過度に目に負担がかからないようにする工夫、幼少期には手触りは肌触りや視聴覚の刺激が適性であるアナログ教材が使われていること、語学習得の最適年齢などの設定が提示されていることなど)
※「感覚や慣習によって決められていた発達段階と学習内容の関連」の見直し

5)幼少期(およそ2~6歳程度)においては、自立的学習・自己のマネジメント能力の育成に力点が置かれる。これは以後の学びの基礎となっていく(自分で好きなもの嫌いなものを識別する、必要な学びの内容をある自立して設計する、実行する、振り返る、他者との比較による相互評価や自己観察・自己評価ができる、自分の強み、弱みのつかみ方などを知る、人の話を聴く、他人と葛藤が起きた時の解決方法を知り実践できる、コミュニケーションの基本ができているなど)
※「学習コンテンツに入る前に、学び方の方法や自立して学ぶ方策そのものを習得すること」の重視

6)ハンディキャップがある学び手にとっては、必要なツールが提供されている。視力に対してメガネ、聴力に対して補聴器が利用できるように、学習者当人が不得意とする部分を補わないと学習修得が進まない場合は、必要・必然なツールがいつでも自由に使える環境が提供されていたり、学習アドバイザー、サポーターが介在してサポートしていく。
※「より進んだノーマライゼーション」の導入

7)教える、教わる側という図式ではなく、学び合いが学習の基本となる。教師は学習全般の理論をマスターし、学び手をいざなうコーディネーターやコーチ、メンターとしての役割をなす。集団での学び合いを促進するファシリテーター役でもある。年長者、学習が進んだ者がそのリソースを学習が遅れている人に提供するといった行為は学習の常識となっている。
※「教育とは、未熟な生徒の空の器に知識を注入する」という概念からの脱却

8)職業選択に関わるところでは、企業側は、採用に必要なスキルやコンピテンシー、すなわち、どの科目のどのグレードの修得(今でいうところの専門学校や大学での履修科目)が必要とされるかが提示されている。採用を申し込む側は、当該学習科目の修得証明を提示し、面談等により選考される。企業が直接、教科プログラムをオンライン・オフラインで提供する形態の学校も存在する。
学習評価はあくまで、その学習者の持つ能力の証であり、人の序列などとは関係がなくなる。
※「学校ランキングによる序列化」は撤廃されている。

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☆3 校舎や組織として学校や教師の意義
上記2は概念的なものでした。今の学校のように校舎を持ち、組織だって学習する場というものが、2050年に存在するのでしょうか? おそらく存在はしていますが、固定カリキュラム、固定学年、固定教師といった形式は崩れてくる可能性を感じます。小学校年齢でいながら大学並みの講義を受ける人、大人年齢でも分数計算など小学校内容でつまづいている人が、シームレスに自分の理解度に応じて、必要な学びが受けられるといった自由さが担保されています。

学校が施設として存在するとしたら、その意義は、

1)一人での学びを超えて、さらに学習を促進する集団での学習効果。ライブで学ぶことの意義が活かされる場
2)芸術・体育・実技系科目の履修場所。家庭や地域の施設では学べない実習設備・道具などを持っている施設
3)集団での相互理解やコミュニケーション、協働を学ぶ場


教師の意義は、

1)学習ガイド・アドバイザー役。何をどう学んでいくかが多様になってくるので、何を学ぶかの設計部分をデザインしたり、チェックしてアドバイスしてくれる。また就職や個人の興味・関心に関連して、履修すべき学びの概要や体系をアドバイスしてくれる。

2)学習コンテンツのクリエーター役。専門知識を持ち教育効果の高いプレゼン力を発揮し、教材コンテンツ(動画や資料)の作り手。

3)コーチやメンター役。学びのペースメーカーとなって学習者のメンターやコーチとして立つ。

4)ファシリテーター役。集団での学びを設計したり促進してくれる役割。

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☆4 義務教育 最低限身につけなければならない学力の保証

学習者が自ら自分で必要な学びをコーディネートして選択学習するとなると、好きなもの、得意なものしか履修しないのではないかという懸念が予想される。(好きなものだけ食べていると成長という点で不健全であるという説)

しかしながら、これらの履修や学習を進めていくうちに、必要な科学的社会的知識、語学、コミュニケーション能力などは、自ら気づいていくはずであるし、避けて通れないものとなってくる。したがって、これらの基礎コースとしての義務教育のような学習体系に対するニーズは相変わらずあるであろう。

 以上   2014/1/4 14:15 現在

2014年1月3日金曜日

提案をつなぐことでつながる新しい世界

昨年、高校教員から独立して、ひとつやりたかったこと。
その一つに、全体性から観る思考方法の普及というミッションが自分の中にありました。

現代社会は、よくみてみると、ここをこうしたい、こうなればいいのにということが山積みです。そして、その解決として、自分の目の前のことだけを追って解決するという部分最適に至ると、自分を含む全体のパフォーマンスが落ちるから、みんなが全体思考的に考えられるともっと問題解決は簡単にいくと思いましたし、そうした需要は大きいのではないかと当初、思っていました。

実際に、用途に合わせて有償無償のワークショップを複数回やらせてもらって、システム思考で考えたり、それを問題解決に応用することなどをテーマに活動してきました。

やってみると意外でした。 おどろくほど手応えがなかった・・・

つまり、日本人は、問題解決に正面から向き合うのは苦手だったり、面倒だったり、嫌悪感すら抱いている人が多いのではないかということが実感というか、直面せざるをせない状況となりました。普及に力をそそいでも関心が極めて少ないのです。
私は、システム思考とは言わず、全体を観ながら問題解決にあたっていくという手法は、これからの時代、必須だと思っていましたので、正直、その反応の弱さに残念な思いを抱きました。


ああ、そういうアプローチでは、今の日本、今の時代ではだめなんだなと・・・・


そこで、今年2014年は違う球を投げたいと思ったのです。



もう、自分で思った世界というのを見せてしまおう という提案です。

ワークショップを開いたり、みんなで深ぼったり、合意形成していったり・・・・
それはそれで全くやらないではありません。それも楽しいと思います。

しかし、個人ベースで提案できること、気づいたこと、どんどん発信してしまおうと。
その手段としてブログの発信は有効だと思っています。

どこでどんな動きが出てくるか 全く予想不可能な時代。
自分のアイデアをあたためて あたためて、 だいじょうぶかなって細かなシミュレーションしたり、完成を待って完全品をつくってから世にリリース なんてしていては間に合いません。(何に?(笑))


よって、個人ベースで考えている日本・世界の新しい仕組みに関することをこちらに次々と発信していくことを思いついた次第です。この提案には、もちろん、自分が積み上げた知見や考えがありますが、”異星人思考”という福島がオリジナルに生み出した独自の思考方法がベースにあります。この思考方法自体については、別ブログで書かせていただくことにしています。

リーンスタートアップ時代の意思決定システム

世界のスピードは、加速する一方です。
これが良い事なのか、悪い事なのかという議論を待たずに、テクノロジーは進化し、地球上の見知らぬ人どうしがつながれる機会が増してそこにビジネスのチャンスや知恵は共有されます。また、人々のニーズもアメーバのように変幻自在に変化するような世の中になっており、先行きがなかなか見えないのです。

このような状況にあって、意思決定システム、企業や政治を代表とする意思決定システムがついてきていないのが現状です。

例えば、政治的に決定しなくてはならないイシューが3つあり、これをα、β、γとしましょう。
αについては、A案とB案があり、
βについては、C案とD案があり、
γについては、E案とF案があるとします。

今の選挙では、ある政党に属する候補者に投票するという方式でしか民意が反映されません。
これだと、個人としては政策の案をA、D、Fを支持するけれど
〇〇党は、A、C、E  △△党は、B、D、E を支持していて党議拘束もかかっていて各議員の意思表示ができないということがよくあります。
これでは、自分が考えている意見が政治に反映されていないということが日常になります。
わかりやすくいうと、セット定食しか選べない状況です。

そこで、α、β、γの案件について、直接自分が意見投票できるような場がもっとあればと思います。
これはアラカルト定食を自分で選ぶことに相当します。

マスコミなどの世論調査では、αについて、どれだけの賛成・反対などと調査結果が載ることがありますが、サンプリングに偏りがあったり、そもそもその問題に関して答えている側が事実をどこまで踏まえて判断しているかわからないまま行われているケースがよく発生していると思います。(特に若い人は政治に関心のない場合がおおいので) また、過日の特定秘密保護法案のように、マスコミの世論調査やパブリックコメントでは、法案審議を慎重にしてほしい民意が大多数だったのに、代表民主制の国会では急いで可決されていきました。
これは、調査をしても、結局は手の届かない政治の世界で決められるという政治不信につながっていきます。

政策についてリアルタイムに、しかも紳士的な討論(これはまた次回以降で扱います)ができる土壌をつくっていくことが日本・世界にとって次なる意思決定システムにつながると思っています。

日本と世界の新たな仕組みを提案するブログ はじめました

みなさん、こんにちは。
ワークショップデザイナー、学びコンサルタントの福島毅です。

2014年がスタートしました。
自身ではすでにブログを2本開設していますが、目的の異なるもう1本のブログを2014年、スタートさせることにしました。

これは、提案に関するブログです。

本来は対話などのワークショップを行って、複数人のチェックを働かせながらコンセンサスを得た方がよい提案も多数ですが、まずは情報発信が大切で、発信している中でさまざまな修正がなされるかと思っています。

大量生産・大量消費・人間中心の地球システムは変わらないと持続可能にはなりません。人も客観の時代から主観の時代へ。何事も自分ごととして捉え、再定義しながら、どんな日本・世界を築いていったらいいのかをみなさんとともに考えるブログにしていきたいと思います。

2014年1月3日   福島 毅